『산책(stroll)』について

金東律研究

はじめに

『산책(stroll)』(「散策(stroll)」2024年10月27日発表)について。

韓国語で<산책(サンチェッ)>とつぶやくと、それは「散歩」というより「散策」であり、散漫に、ただ散り散りに歩き廻ることであることが感じられる。

それは健康的なwalkingではないのはもちろん、哲学的なひらめきを求めたそれでもなく、あたかもただ<さまよう(해매다니다/ヘメタニダ)>ような<散策(산책/サンチェッ)>である。

キム・ドンリュルの作品には街角を、路地を<歩き廻り、さまようこと>について語る楽曲が多くみられる(注1)が、『산책(stroll)』での<歩み(걸음/コルム)>は、情景により広がりを持ち、かつ抽象的で、淡く短い感情の起伏として描かれ始める。

河辺で

눈부시게 반짝거리는(ヌンブシゲ パンチャッ コリヌン)眩しくきらめき

싱그러운 향이 가득한(シングロウン ヒャンイ カドゥッカン)さわやかな香りでいっぱいの

어느 봄날 강가를 걷고 있을 때(オヌ ポムナル カンカル コッコイッスルテ)ある春の日の河辺を 歩いている時

ある春の日、ハンガンの河辺を歩いていたKは、眩しい川面のきらめきを目にし、あたりの草花が香るさわやかな空気を吸い込みつつ、ある種凡庸な春の心地よさに包まれている。Kの歩みは平坦なリズムで刻まれて行く。

歌に誘われて

그날따라 듣는 음악도(クナルッタラ トゥンヌン ウマット)その日はなぜか 聴いていた音楽も

내 맘처럼 흘러나오고(ネマムチョロム フロナオゴ)僕の心のように流れ出し

따듯한 바람에 둥실 맘이 떠갈 때(タドゥタン パラメ トンシル マメ ットカルテ)優しい風に ふわりと心が漂い流れた その時に

どうやらKは音楽を聴きながら歩いているようだ。「プレイリストの中の数千曲の音楽を無心で聴くうちに(注3)」聴くことになった音楽。

それはどんな音楽だったのだろうか。ピアノ音楽などクラシック音楽だったのか。それとも<歌(노래/ノレ)>だったのか。おそらく後者であったろう。

キム・ドンリュルによる本曲の解説文(注4)によると、この『散策』という<歌(노래/ノレ)>自体が、だれかの散歩用のプレイリストから「ふとすっかり忘れていたこの曲が流れてきた時、その5分間を美しく刻む(注5)」ことができるように企図された<歌(노래/ノレ)>だからである。

つまりこの『散策』の内部に流れる音楽もまた『散策』を主題とする<歌(노래/ノレ)>であり、本曲は聴き手にとって入れ子構造を持っているということになる。その<歌(노래/ノレ)>によって、Kの心は微かな風に乗って流れ出し、空中を、そして眩しい川面を漂い始める。

立ち尽くす

나도 모르게 두 눈이 조금씩 젖어 갔네(ナド モルゲ トゥヌニ チョグムシッ チョジョガンネ)我知らず 少しずつ目に涙が溢れてきて

누군가 볼까 잠시 멈줘 섰네(ヌグンガ ボルカ チャムシ モムチョソンネ)誰かに見られてはと しばらく立ち尽くしたんだ

ここでKは、我知らず流した涙に動揺し、立ち止まる。

突如押しよせる激しい感情の波。

それは、公園を楽しげに散歩している人たちの目には、違和感を与えるであろうと思われた。

立ち尽くしたKは情景の内側にいる自分に語りかけはじめる。

旋律は流れる。しかしこの一節の直後には言葉(歌詞)の余白が設けられている。

うつくしい別れ

아름다운 것일수록(アルムダウン コシルスロッ)うつくしい事であれば

그만큼 슬픈 거라고(クマンクム スルプンゴラゴ)それだけ悲しい事だと

어쩌면 그때 우리는(オッチョミョン クッテウリヌン)どうして僕たちはあの時

아름다움의 끝을 피운 걸까(アルムダウメ クットゥル ピウンゴルカ)うつくしさの終わりを弄したのだろう

並んで歩きながら、二人はいつも語り合っていた。Kは立ち止まって、その時の歩みを思い起こしている。その時と同じ歩調で、いまもKは歩いている。

Kとその対手は「うつくしい関係であるほどに、より悲しい関係だ」と語り合い、別れることになった。

「美しくあればあるほどに、その分深く悲しい」という事態は、穏やかな春の情景の「美しさ」とは異なり、激しい感情を伴う。だから「どうして」とKは今でも問い返す。

河辺の優しい風(따듯한 바람)のような関係性でいれなくなったKとその対手は、「うつくしい関係を終わらせる」という「作為」を起こした。

<美しい(아름다운)>あるいは、<美しさ(아름다움)>という語は、意外なことにキム・ドンリュルの楽曲で使われることは稀である。ここでは一般的な情景や異性の「美しさ」とは異なる<うつくしさ>が示唆されている。

Kは<うつくしい>と確認しあった対手との関係性を、特権的な<うつくしさ>として問い返しているのである。

泣いていいのだろうか

울어도 되는 걸까(ウロド デヌンゴルカ)泣いていいのだろうか

이렇께 눈부신 날에(イロッケ ヌンブシンナレ)こんなに眩しい日に

불러도 되는 것일까(プロドデヌン ゴシルカ)呼んでもいいのだろうか

고이 간직했던 그 이름(コイ カンジケットン クイルム)そっと大切にしまっておいたその名を

Kは、春の散歩を楽しむ人たちになじむことができない。

明るく何気ない日常に心を開くことができないでいる。恋人たちや家族たちが素朴に散歩を楽しんでいる河辺、自分はそこにはいないという気がする。

それもこれも、いつも心にかつての対手の大切な名前がしまってあるからだろう。

できれば泣きたい、そしてかつての対手の名を呼びたい、と思う。

落ち葉の公園

사각사각 바스러지는(サガッサガ パスロジヌン)カサカサと砕ける

노란 빛깔 낙엽 가득한(ノラン ピッカル ナギョプ カドゥッカン )黄色い落ち葉でいっぱいの

어느 가을 공원을 걷고 있을 때(オヌ カウル コンウォヌル コッコイッスルテ)ある秋の公園を歩いているとき

ある秋の公園(어느 가을 공원)をKは歩いている。それは、ある春の河辺(어느 봄날 강가)での散策と同様に「いつかの」秋である。

Kが語る<春>や<秋>はぐるぐると経巡る季節の流れなかにある。言えることは、第一節の春の散策より、第ニ節の秋のそれは、より自覚的に<そっと大切にしまっておいたその名を>求めて彷徨う散策であるということである。

第二節での秋の散策は<その名>の予感に満ちている。

Kはすでに<その名>を探している。Kの歩みは、どこか目的地に向かうのではなく、ぐるぐると同じところを巡っている。

<春>と<秋>。それは散策に適した季節であるということ以上に、<夏>と<冬>とを繋ぐ「合わい」であり、Kに時間の移り変わりを、その循環を強く意識させる。

かすかな風

그날따라 든는 음악도(クナルッタラ トゥンヌン ウマット)その日はなぜか 聴いていた音楽も

내 맘처럼 흐러나오고(ネマムチョロム フロナオゴ)僕の心のように流れ出し

서늘한 바람이 머리를 간질일 때(ソヌラン パラミ モリル カジルッテ)ひんやりとした風が髪をくすぐるとき

Kが予見していたとおり、その時はやって来る。

その歌(그 노래)が手持ちの音楽リストから流れ出し、それはまるでKの心の流れそのものである。

春には暖かく優しい風(따듯한 바람)、秋にはひんやりとした風(서늘한 바람)どちらも繊細で、髪先をほんのくすぐるような風である。

聞き慣れた歌、かすかな風はまた、Kの涙を引き寄せる。

やっぱり泣く

나도 모르게 두눈이 조금씩 젖어 갔네(ナドモルゲ トゥヌニ チョグムシッ チョジョガンネ)我知らず 少しずつ目に涙が溢れてきて

누군가 볼까 잠시 멈춰 섰네(ヌグンガ ボルカ チャムシ モムチョソンネ)誰かに見られてはと しばらく立ち尽くしたんだ

春に自身に起きたことをKは繰り返す。

予見していたとはいえ、涙を抑えきれない。

<歌>も<季節>も、それらは繰り返すことを前提とした形式である。

春に自身に起きたことをKはきっちりとまた繰り返して見せ、やはり涙しながらしばし立ち尽くす。

秋の散策では、涙と<その名>とは瞬時に呼応する。

名を呼ぶ

울어도 되는 걸까(ウロド デヌン ゴルッカ)泣いていいのだろうか

이렇게 볕 좋은 날에(イロッケ ビョ チョウンナレ)こんなに陽気のいい日に

불러도 되는 것일까(プロド デェヌン ゴシルカ)呼んでもいいのだろうか

애써 잊고 있던 그 이름(エッソ イッコイットン クイルム)努めて忘れていたその名を

ここではすでに、Kの心は世界に開かれている。

<その名>を努めて忘れていたんだと気付いたKは、自身に<その名>を呼ぶことを許している。

自らを開放して、泣いてもいいのだ、呼んでもいいのだと。

散策は続く

どれだけ歩いてきたのか

난 얼마나 걸었을까(ナン オルマナ コロッスルカ)僕はどれくらい歩いたのだろう

어딜 향해 걷는 걸까(オディル ヒャンヘ コヌンゴルカ)どこに向かって歩いているのだろう

날 가다리고 있을까(ナル キダリゴ イッスルカ)あのひとはどこかで僕を待ち続けてくれているだろうか

마냥 빙빙 돌고 있을까(マニャン ピンビン トルゴ イッスルカ)あるいは僕らはただひたすらぐるぐる回っているのかもしれない

Kはどこからどこへ、どのくらい歩いて来たのかがわからない。

ただ彷徨っている。彷徨っているどころか、同じ場所をぐるぐると経巡っている。

季節が巡るように。また歌を繰り返すように。

ところで本曲のMV では、男主人公は<春>と<秋>を生きている。一方、女主人公は雪の降りしきる<冬>に佇む。そして、MV後半に描かれる二人の思い出のシーンは、半袖に釣り道具を片手の<夏>でなのである。二人が季節を巡って追いかけ合いながら、決して交わることがないのだということがよく表現されている映像となっている。

並んで歩きたかった

함께 걷자고 했잖다(ハムケ コッチャゴ ヘッチャナ)共に歩こうといったじゃないか

나란히 걷자 헸잔하(ナラニ コッチャ ヘッチャナ)並んで歩いて行こうといったじゃないか

이토록 날이 좋은네(イトロッ ナリ チョウンデ)こんなにいい日和なのに

여전히 난 홀로 걷는다(ヨジョニ ナン ホルロ コンヌンダ)依然として僕はひとりで歩いている

いっしょに並んで歩いて行こう。同じ方向をみて、同じ道を歩いて行こうと語りあった対手は、Kの傍らにはいない。Kはあたかも独り言のように、かつての対手に呼びかけ、<ひとり>で歩いている自分を描いて見せる。

こうしているうちに、Kの歌は、かつての対手への呼びかけから<歌そのもの>へ変容する。

Kは彼が本来依って立つ場所である<歌>に立ち返る。ここでKは<歌>によって照らされている。

この節での毅然とした歌唱法もそれを示しているようだ。最後の「依然として僕はひとりで歩いている」というKのありようは、宿命のようにみえる。それでもKは、さまよいつづけ、よびかけつづけ、<歌>を歌わずにはいられない。

コメント

  1. まくり より:

    「散歩」の訳の合間に、織り込むような解説。本当に”内在的に読み解”かれていて、うなづきながら、興味深く読ませていただきました。
    このサイトを初めて知りました。

    キムドンリュルさんと、その音楽を知ってまだ2年ですが、金脈を掘り当てたような嬉しい感覚で、音楽活動30年間の作品を鑑賞しています。

    残響、請願はもちろん、The PlayやSong も好きな作品です。”内在的な読み解き”を、いつか読ませていただけたら….嬉しいです。

    • コンナイ コンナイ より:

      まくり様
      思いがけないコメントをいただき、本当に嬉しいです。

      大好きなキム・ドンリュルさんの歌詞の解釈をやってみようと思いたち、ノート代わりに書きさしの記事を公開してありました。

      まくりさんのコメントに力を得て、この記事の続きをまたはじめてみようと思います。

      残響、請願、The Play やSong、私も大好きです。
      ドンリュルさんの音楽世界と韓国語は本当に豊かで「金脈を掘り当てた」感覚、私にもよくわかります!

      ゆっくりした歩みかもしれませんが、ぜひ、またこのページに遊びに来てくださいね。