『산책(stroll)』

1『散歩』(2024年10月)

『산책(stroll)』について。

韓国語で<산책(サンチェッ)>とつぶやくと、それは「散策」であり、散漫に、ただ散り散りに歩き廻ることであることが感じられる。

それは健康的なwalkingではないのはもちろん、哲学的なひらめきを求めたそれでもなく、あたかもただ<さまよう(해매다니다/ヘメタニダ)>ような<산책(サンチェッ)>である。

キム・ドンリュルはこれまでにも、この<(おそらくはソウルの街角を、また路地を)歩き廻ること>について語っているが、『산책(stroll)』での<歩き(걸음/コルム)>は、より情景に広がりを持ち、かつ抽象的で、淡く短い感情の起伏として描かれることになる。

1‐1

눈부시게 반짝거리는(ヌンブシゲ パンチャッ コリヌン)眩しくきらめいて

싱그러운 향이 가득한(シングロウン ヒャンイ カドゥッカン)さわやかな香りでいっぱいの

어느 봄날 강가를 걷고 있을 때(オヌ ポムナル カンカル コッコイッスルテ)ある春の日の河辺を歩いている時

ある春の日、ハンガン(한강)の河辺を歩いていたK(注)は、眩しい川面のきらめきを目にし、あたりの草花が香るさわやかな空気を吸い込みつつ、ある種凡庸な春の心地よさに包まれている。Kの歩みは平坦なリズムで刻まれて行く。

1-2

그날따라 듣는 음악도(クナルッタラ トゥンヌン ウマット)その日に聴いていた音楽も

내 맘처럼 흘러나오고(ネマムチョロム フロナオゴ)僕の心のように流れ出し

따뜻한 바람에 둥실 맘이 떠갈 때(タットゥタン パラメ トンシル マメ ットカルテ)温かい風にふわりと心が漂い流れた その時に

どうやらKは音楽を聴きながら歩いているようだ。「プレイリストの中の数千曲の音楽を無心で聴くうちに(注)」聴くことになった音楽。

それはどんな音楽だったのだろうか。ピアノ音楽などクラシック音楽だったのか。それとも<歌(노래/ノレ)>だったのか。おそらく後者であったろう。

キム・ドンリュルによる本曲の解説文によると、この『散歩』という<歌(노래/ノレ)>自体が、散歩用のプレイリストから「ふとすっかり忘れていたこの曲が流れてきた時、その5分間を美しく刻む(注)」ことができるように企図された<歌(노래/ノレ)>だからである。

つまりこの『散歩』の内部に流れる音楽もまた『散歩』であり、本曲は入れ子構造を持っているということになる。その<歌(노래/ノレ)>によって、Kの心は温かい風に乗って流れ出し、空中を、そして眩しい川面を漂い始める。

1−3

나도 모르게 두 눈이 조금씩 젖어 갔네(ナド モルゲ トゥヌニ チョグムシッ チョジョガンネ)我知らず 少しずつ目が涙に濡れてい

누군가 볼까 잠시 멈줘 섰네(ヌグンガ ボルカ チャムシ モムチョソンネ)誰かに見られるかと しばらく立ち止まった

Kは、突然涙した自分に動揺する。

1−4

아름다운 것일수록(アルムダウン コシルスロッ)うつくしい事であればこそ

그만큼 슬픈 거라고(クマンクム スルプンゴラゴ)それだけ悲しい事だと

어쩌면 그때 우리는(オッチョミョン クッテウリヌン)一体どうして僕たちはその時

아름다움의 끝을 피운 걸까(アルムダウメ クットゥル ピウンゴルカ)美しさの終わりを弄したのだろう

1-5

울어도 되는 걸까(ウロド デヌンゴルカ)泣いていいのだろうか

이렇께 눈부신 날에(イロッケ ヌンブシンナレ)こんなに眩しい日に

불러도 되는 것일까(プロドデヌン ゴシルカ)呼んでもいいのだろうか

고이 간직했던 그 이름(コイ カンジケットン クイルム)大切にしまっておいたその名を

2-1

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